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最近、奇妙な偶然で”アレキサンダー大王”と”アレキサンダー”を続けて観た。 同じアレキサンダーでもこの二つの作品は全く別の人物の話なのだ。 ”アレキサンダー大王”は、最新作「エレニの旅」がつい先頃公開された、テオ・アンゲロプロス。そして”アレキサンダー”は”プラトーン”などのハリウッドの社会派監督と言われるオリバー・ストーン。 はじめに全く別の人物と書いたが、もちろんどちらのアレキサンダーもある意味では、歴史上最も若くして自ら帝国を築き上げたアレキサンドロス3世がそのイメージの根元であることに違いはない。 と言って、この二つの作品を比較して見ても仕方のないことなのかも知れないが、たまたまどう言う偶然か、この同じタイトルを持つ二つの作品を、同時に見ることになり、この偶然さゆえ、あえて意味のないこともしてみる気になった。 私のブログの映画カテゴリーは、この偶然の出会いから始めることにしよう。 アンゲロプロスの”アレキサンダー大王”は19世紀から20世紀ににかけてオスマントルコの支配下にあったギリシャでアレキサンダー大王と呼ばれた義賊をモチーフとした作品である。今から20年近く昔に始めてこの作品のビデオを見たときは、当然のごとくアレキサンドロス3世の歴史スペクタクルを期待していて、完全にコケまくった事を覚えているのだが、肝腎のストーリーの方は約3時間半の上映中の殆どを居眠りで過ごしてしまって、全く覚えがないという体たらく。その後、この作品を見る機会が無く、ようやく先日DVDを手に入れて、念願の再会が果たせたのだ。 −− 20世紀を目前にしたある晩、アレキサンダー大王と呼ばれる盗賊の頭目と、その一味達は収監先の監獄を脱獄する。故郷に向かう彼等は、途中20世紀最初の日の出を楽しもうとしていた、イギリス人貴族達を人質として誘拐してしまう。こうして人質を伴って故郷に向かう彼等に加え、官憲の目を逃れて旅するアナーキストの一団までも合流して、彼等は目的の故郷にたどり着く。しかし彼等が監獄で過ごす間、そこは先生と呼ばれる男の指導のもとに、コンミューンの村に変わっていた。 アレキサンダー大王達は、村の決まりに従うことを条件に村に迎え入れられる。しかし全ての財産を共有化したコンミューンの村に、アレキサンダー大王の部下達の不満はつのっていく。彼等にとって先祖代々受け継いできた土地に対する愛着は、何物にも換えがたいものがあった。そうしたなか、彼等は自分達のコンミューンに対する不満の表現として、村人達の共有財産である羊を広場で虐殺する。その事を切っ掛けに村人とアレキサンダー大王達との亀裂が深まっていくのだ。 そして、その不満は大地主から返された村の土地を巡って、村人の間にも徐々に広まり、結局コンミューンという共同幻想も徐々に崩壊していく。 −− この”アレキサンダー大王”という作品は、かつてペルシャに支配されたマケドニア人民を解放した、アレキサンドロス3世を下敷きに、アレキサンダー大王という義賊の行動を通して、権力、カリスマ、政治と言ったものの仕組みと仕掛けを我々の前に投げ出してみせる。 映画の観客の我々は、アレキサンダー大王と名乗る何かしら滑稽な男の行動の中に、現実の権力というものの雛型を見ているのだろう。このアレキサンダー大王と名乗る男は、物語の中でしばしば重要な場面で、癲癇の発作を起こして意識不明になるのだが、これが何を象徴しているのか。現実の政治でも、結局何時も肝腎の局面では政治というものは、機能不全に陥り何も役に立たないと言うことなのだろうか? 映画の中でアレキサンダー大王が「目が覚めたらこの大理石の像を抱えていた。重くて肘が痛い。これをどうすればいいのだ。」と言うような台詞を語るのだが、いかにもカリスマというものの本質を表す言葉だと思う。 人はカリスマによって動かされていくが、政治はそのカリスマをも何れ飲み込んで動いていくものなのだ。二人のアレキサンダーもカリスマの限界に達したときに、現実の政治に飲み込まれていくことが運命付けられていたのかも知れない。 一方、オリバー・ストーンの”アレキサンダー”の方は確かに豪華なセットや衣装で、目を引くが内容的には今ひとつ盛り上がらないストーリーなのだ。エンターテインメントとしては、中盤以降の遠征のシーンはいかにもくどい感じがする。かといって、この作品が娯楽性を無視してまで強いメッセージが感じられるかというと、それもまた疑問だ。 ただこの作品もほぼ3時間にわたる長編映画なのだが、その割に見終わっての満足感が少ない。結局エディプスコンプレックスの少年が、そのコンプレックスを解消できないまま青年となり、そのコンプレックスで東方遠征を企てたと言う事なのだろうか?それだけのために3時間もこの映画を見せられるのは、かなり辛いものがある。 もちろん好みもあろうが、オリバー・ストーンの作品は何時も独善的な匂いがして、何となく見終わって消化不良を起こした気分がするのは、私だけだろうか。 今回の作品に関して言えば、前半はいわゆるゲイとかバイとか言われる話がテーマなのかと思いきや、中盤からは激しい戦闘のスペクタクル。戦闘シーンの処理はまるで、タクティクスゲームを見るかのように、アレキサンダーの戦術家としての天才振りが描かれる。しかし同じ戦闘シーンもインド遠征の場面では、何だかまるで”ロード・オブ・ザ・リング”でも見ているような描かれ方になっている。 結局、それぞれのエピソードごとに映画の文法が微妙に違っている気がして、映画全体を通して今ひとつ統一感が感じられないのだ。 ただ、オリバー・ストーンがウォルフガング・ペーターゼンの”トロイ”のような娯楽作品としての歴史スペクタクルを目指していたのではないことだけは、なんとなく感じられるのだが・・ しかし、彼がこの作品でアレキサンダーの東方遠征とブッシュのイラク政策とをオーバーラップさせて語ろうとしているのであれば、それは余りにも短絡的に過ぎると言えないだろうか。 この二つのアレキサンダーというタイトルを持つ映画を見比べて、まったく下世話な話で申し訳ないのだが、そのコストパフォーマンスのあまりの違いに思わずため息が出てしまう。現実の興行収益という部分ではオリバー・ストーンの作品の方が遙かに高い収益を上げたことだろうが、観客の心に伝えるメッセージの重さとしては、そのコストパフォーマンスはアンゲロプロスの作品の方が遙かに上回っていることは間違いない。 後半だれてしまって、ただただ映画の長さばかりが気になる”アレキサンダー”に比べ”アレキサンダー大王”は中盤以降のアレキサンダー大王が故郷の村に帰り着いてからの展開は、3時間半という映画の長さをまったく感じさせない内容だ。 しかも、200億円を掛けて作った”アレキサンダー”のビジュアルは確かに素晴らしいが、”アレキサンダー大王”の画面の美しさはさすがにアンゲロプロスの感性の素晴らしさを感じさせるものだ。 物作りの一人として、この二つの作品を見比べたとき、どちらの作品により多く惹かれるかは自ずと明らかなような気がする。
by datenshi_art
| 2005-09-03 12:21
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